2007年11月15日(木)

11.岐阜城以後の信長

 1576年(天正4年)、信長は将来の飛躍に備え、近江の安土(滋賀県安土町)に居城を築いて移りました。城は、七層造り天守閣を持つ本格的な城郭で、その豪華さは人々を驚かせました。
 城下町の繁栄を図るために13ヶ条の掟を公布し、城下を楽市とするとともに、様々な特権を与えて商人の誘致をはかりました。
 一方、岐阜城は嫡男(ちゃくなん)の信忠に与え、尾張・美濃両国を支配させました。信忠は1557年(弘治3年)尾張清洲城で生まれました。1572年(元亀3年)岐阜城で元服し、同年父に従って浅井長政の近江小谷城を攻めたのが初陣です。以後、各地に転戦して軍功をたてました。
 1574年(天正2年)伊勢長島の一向一揆討伐、翌75年(天正3年)の長篠の戦に参加して勝利を収め、その余勢で、武田氏の属城であった美濃の岩村城を攻略して、守将の秋山信友を捕虜にしました。この戦功によって秋田城介(あきたじょうのすけ)に任ぜられ、翌76年(天正4年)に従四位下の官位が与えられました。信長の後の岐阜城主となり、後継者としての立場が鮮明になったのです。
 安土城に移った信長は官位も次々に進み、内大臣から右大臣、1577年(天正5年)には正二位に叙せられました。
 信長の天下統一事業も、1580年(天正8年)羽柴秀吉により三木(みき)城(兵庫県三木市)が落城し、長年信長に頑強に抵抗していた石山本願寺も顕如(けんにょ・本願寺法主(ほっす))が降伏して、畿内も平静になりました。
 1582年(天正10年)2月、甲斐の武田氏を滅ぼした後、同年5月、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう・岡山県岡山市)を包囲して毛利勢と対峙(たいじ)していた秀吉から救援要請を受けて5月29日、信長は安土城をたって上洛し本能寺に泊まりました。しかし、6月2日の未明、家臣の明智光秀(あけち みつひで)の襲撃を受けて自刃しました。
 時に信長49歳でした。

Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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