2007年11月30日(金)

1.出生から尾張統一へ

画像(150x180)・拡大画像(441x528)

織田信長肖像画(崇福寺所蔵)

 織田信長は1534年(天文3年)、尾張(おわり)勝幡城(しょばたじょう)で生まれ、後に那古野(なごや)城(現在の名古屋市)で育ちました。幼名を吉法師(きちほうし)といい、父は尾張下(しも)四郡を支配する清洲城主(きよすじょうしゅ)(現在の清須市)織田家の家老織田信秀です。
 1546年(天文15年)、元服して織田三郎信長と名乗り、1551年(天文20年)父 信秀の死によって18歳で家督をつぎ、みずから上総介(かずさのすけ)を称します。この頃の信長は、好んで異様な風体をして、粗暴な振る舞いが多かったので、「大うつけ者」(大ばか者)の評判が高く、そのため織田家の家臣や一族には信長から離反するものも多く出ました。お傅役(もりやく)の平手政秀は、自身の死をもって信長を諫(いさ)めたので、信長も深く悔悟(かいご)し、政秀の死をいたんで政秀寺(せいしゅうじ)を建立し、菩提を弔いました。
 その後、信長は尾張国内の反対勢力を一掃するための統一行動をおこします。まず、松葉・深山両城の織田氏を攻略し、1555年(弘治元年)には、下四郡の中心地 清洲城の織田信友を滅ぼして、ここに本拠を移しました。
 さらに、信長に反逆を企てた、弟の信行を清洲城内で謀殺し、1559年(永禄2年)には、尾張上(かみ)四郡の主城・岩倉城の織田信賢を降して、ほぼ尾張一国をその支配下に収めます。この尾張統一の過程で鉄砲と長槍で武装し、信長の手足となって動く強力な家臣団の編成が進みました。
 その翌年(1560年・永禄3年)には、「東海の雄」と言われた駿河(するが)・遠江(とおとおみ)・三河(みかわ)の大守 今川義元の大軍約2万5千人を2千人程度の兵で田楽狭間に襲撃し、義元の首級を挙げました。史上有名な「桶狭間(おけはざま)の戦い」です。この戦いで信長の武名は一躍四方にとどろきました。
 1562年(永禄5年)、今川氏の支配を脱した三河の松平元康(のちの徳川家康)と盟約を結び、元康に東方の防衛を委ね、信長は西方進出を図り、美濃攻略を開始します。このため、1563年(永禄6年)、清洲城から居城を小牧山に移し、美濃の斎藤竜興とその後激しい攻防が繰り返されました。

財団法人岐阜観光コンベンション協会 観光歴史アドバイザー
郷土史家 加納 宏幸 (2話以降も同じ)

Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 10時00分

過去の記事へ

ページのトップへ ページのトップへ