2007年11月13日(火)

13.信長の正室・濃姫

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鷺山山頂

 濃姫は、斎藤道三と可児明智城主(現在の可児市)・明智光継の娘で、才色兼備と言われた小見の方(おみのかた・道三の正室)の間に生まれました。美濃国主の娘であったので、美濃姫=濃姫と呼ばれていますが、本名は「帰蝶(きちょう)」といいました。
 また、「美濃国諸旧記」によると、濃姫の育った所が鷺山城(岐阜市鷺山)であったので、「鷺山殿」とも言われていました。
 濃姫が信長と結婚後、どのような生涯を送ったかは、史料が乏しいのでほとんど分かりません。
 信長との間に子どもはありませんでした。信長の子女は明らかになっている者だけで22人いますが、みな側室の子どもです。嫡男信忠・二男信雄・長女徳姫の母は、尾張小折(こおり・現在の愛知県江南市)の豪族・生駒(いこま)氏の娘吉乃(きつの)です。
 濃姫は父道三が子の義竜と戦い、討死した後、その菩提を弔(とむら)うため、亡父の画像(国指定重要文化財)を常在寺に奉納しています。
 「言継卿記(ときつぐきょうき)」の1569年(永禄12年)の記事に、「信長が斎藤義竜未亡人の所持していた、つぼ(茶器)を差し出すよう何度も催促したが、未亡人は岐阜落城の折(1567年・永禄10年)に紛失してしまい、手元にないので、これ以上私を責めるならば自害します」と信長に抗議したとき、「信長本妻(濃姫)兄弟女子十六人自害なすべし」と言い、濃姫は敢然と信長に抵抗したことが載っています。
 濃姫の最後は諸説あり、一説では1582年(天正10年)本能寺の変で信長と共に自害したとされます。岐阜市内には「濃姫遺髪塚」と称するものも残っています。しかし、「信長公記」では「女はくるしからず、急ぎ罷り出でよ」と言い、女たちを退出させたあと信長は一人で自害しています。
 1992年(平成4年)、京都の大徳寺(だいとくじ)総見院(そうけんいん)(織田家墓所)で濃姫の墓と見られる五輪塔(ごりんとう)が発見されました。没年は1612年(慶長17年)で、信長の死後、30年間も生き延びていますが、その間の詳細については、何の手掛かりもなく不明です。

Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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