2007年11月27日(火)

4.信長と斎藤義龍・龍興

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斎藤義龍肖像画(常在寺所蔵)

 道三の死後、信長は「国譲り状」を大義名分にして、舅(しゅうと)の敵を討つために美濃国へ侵入します。しかし、斎藤義龍(よしたつ)は、信長との戦いには一歩も譲らず、互角以上の善戦をして信長を苦しめました。
 義龍は、信長が想像した以上の“戦上手(いくさじょうず)”であり、家臣の掌握にも優れていました。また、治政にも卓越した能力を発揮し、宿老制(しゅくろうせい・最高意思決定機関)などを取り入れて政治を行ったので、美濃国は道三時代よりも安定しました。
 義龍は、宗教政策の一環として伝燈護国寺(でんとうごこくじ)を建て、禅宗寺院の中心に捉えようとしました。そして、自分の帰依(きえ)していた別伝(べつでん)という霊雲派(れいうんは)の禅僧を住職にしました。これに反発したのが、長良崇福寺(岐阜市)の住職で、“禅門(ぜんもん・禅宗)にこの人あり”とうたわれた快川(“心頭を滅却すれば火もまた凉し”といって、甲斐(かい)の恵林寺(えりんじ)(山梨県甲州市)で織田勢に焼殺された紹喜快川(じょうきかいせん)国師(こくし))を中心とした一派(東海派)でした。
 この宗門の争いは国内外に波及し、本山(京都・妙心寺)や室町幕府までかかわる大きな問題になりました。
 しかし、1561年(永禄4年)、義龍の急死(35歳)により争乱は治まりました。別伝は国外に追放され、伝燈護国寺も破却されましたが、現在その地に庚申堂(こうしんどう・岐阜市元浜町)がひっそりと建っています。
 義龍の跡を継いだのは、その子龍興(たつおき)です。14歳で稲葉山(岐阜)城主になりましたが、家臣を心服させるには力不足でした。
 義龍の急死を好機とみた信長は、1561年(永禄4年)5月、美濃へ攻め入り、森部(もりべ・安八町)で斎藤龍興軍と戦い、激戦のすえ打ち破りました。前田利家が斎藤方の猛将・足立六兵衛を討ち取る戦功を挙げ、帰参がかなった戦いでした。
 その後、竹中半兵衛(重治・重虎)と舅の安藤守就(もりなり)が稲葉山城を攻撃し、城主の龍興や馬廻衆(うままわりしゅう・大将を守る旗本)が城を捨て、城下に火を放って退城するという「稲葉山城奪取事件」が起き、龍興の威光は日に日に薄らいでいきました。

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伝燈護国寺跡にたつ庚申堂


Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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