2007年11月26日(月)

5.稲葉山(岐阜)城の落城

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現在の岐阜城

 小牧山城を築いて美濃攻略の拠点とした信長は、東美濃にある斎藤方の諸城(鵜沼・猿啄(さるばみ)・堂洞(どうほら)城)を攻め落としました。その厳しい戦いぶりは、美濃の土豪たちに動揺を与えました。とくに、西美濃の土豪の中には、信長に誘われれば、なびこうとする動きが見えだしたのです。
 1567年(永禄10年)、斎藤氏の有力家臣であった西美濃三人衆の稲葉一鉄・氏家ト全(ぼくぜん)・安藤伊賀守が、信長に味方することを申し出ました。
 このことを聞くや、信長は三人からの人質を受け取る前に、すぐに木曽川を越えて稲葉山城に殺到しました。火を稲葉山城下に放って城を孤立させ、包囲の体制を整えて攻撃を開始しました。
 稲葉山城は、援軍の来る見込みのない“はだか城”です。龍興はついに降服を申し入れ、稲葉山城を明け渡して、長良川を船で下り、伊勢長島へ退きました。8月中旬(信長公記)とも、9月上旬(瑞龍寺紫衣輪番帳(ずいりゅうじしえりんばんちょう))ともいわれます。実に10年間に及ぶ信長との攻防の末、稲葉山城はついに落城したのです。
 また、この戦で、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、長良川沿いから金華山を登り城の背後へ廻り一番乗りをした際、味方への合図に竹の先に瓢箪をつけて振ったという、秀吉の馬標(うまじるし)「千成びょうたん」発祥の場所でもあります。秀吉が登ったルートは現在の金華山登山道・瞑想の小道に近いルートでした。
 長井新左衛門尉(道三の父)・斎藤道三・義龍・龍興と続いた「後斎藤氏」(斎藤利永・妙椿らの前斎藤氏と区別する)の美濃支配の時代は終わりました。
 龍興は、その後、長井隼人正(はやとのしょう)を伴い、近江の浅井長政を頼って落ち延びます。龍興の妻が長政の妹という関係からでしょう。
 「信長公記」には、稲葉山城落城後の1569年(永禄12年)、京都六条合戦に、三好(みよし)三人衆(反信長勢力の三好長慶(みよしながよし)の部将たち)と一緒に龍興・隼人正が織田方と抗戦したことが載っています。龍興はその後、越前の大名朝倉義景(あさくらよしかげ)(信長に攻められて一乗谷(いちじょうだに)で自刃)に属し、1573年(天正元年)、越前敦賀刀根山(とねやま)合戦で信長と戦い、討死しました。
 龍興の位牌は現在、常在寺に安置され、「天正元年八月八日」の没年月日と、法名「瑞雲院殿竜貞日珠大居士」が記されています。

Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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