2007年11月22日(木)

6.天下統一事業へ

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立政寺

 美濃を平定した信長のもとに、正親町(おおぎまち)天皇から尾張・美濃の御料地(ごりょうち・皇室領)の回復を命じる綸旨(りんし・天皇の命令を受けて発行された文書)が届けられました。その中で天皇は信長のことを「古今無双(ここんむそう)の名将」とほめたたえ、ますます天下統一事業に邁進することを期待しています。
 信長は、この綸旨を受けて上洛の決意を固めました。ちょうどこの頃、室町幕府の前将軍足利義輝の弟義昭から、幕府再興について依頼を受けました。信長は義昭を岐阜へ招いて立政寺(浄土宗鎮西派本山・岐阜市西荘)に居住させました。信長は、この好機をのがさず諸国の大名に幕府再興のため義昭を奉じて上洛する旨の文書を配布し協力を求めます。
 1568年(永禄11年)9月7日岐阜をたち、上洛協力に拒否を示した近江(現在の滋賀県)の六角(ろっかく)義賢(よしかた)を観音寺城に攻めてこれを攻略します。同月26日には、義昭を擁して入京し、早速幕府を再興して義昭を将軍職(室町幕府第15代将軍)につけました。
 信長の後ろ盾で将軍になった足利義昭は、最初信長を「御父(おんちち)」とたたえて徳としていましたが、信長の威光が高まり、政治上の実権を握って義昭の権限を制約する態度に出ますと、両者の関係は急速に悪化しました。
 義昭は全国の有力大名に信長討伐の御内書(ごないしょ・将軍の私的な手紙)を出しました。全国各地から信長討伐の火の手が上がり始めます。
 中でも、甲斐の武田信玄が大軍を率いて上洛を始めました。しかし、途中で信玄が病死したため上洛は中止になりました。
 信玄の上洛をあてにし、1573年(天正元年)信長と事をかまえた義昭は、敗れて都から追放されました。また、信長に反抗した朝倉・浅井氏もこの年に討ち滅ぼされています。しかし、石山本願寺や各地の一向一揆、越後の上杉、中国の毛利氏など、反抗勢力は依然として強い勢力を持っていました。
 天下取りが必ず一度は経由しなければならない逆境時代が、信長の岐阜在城時代だったのです。それを不撓不屈(ふとうふくつ)の「鋼(はがね)の意志」で切り抜けた信長は、近畿の要地である安土(現在の滋賀県安土町)に築城工事を始め、1576年(天正4年)岐阜城から本拠地を安土城に移しました。岐阜在城期間は約9年でした。

Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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