2007年11月20日(火)

8.岐阜城の景観

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現在の岐阜城

 信長時代の岐阜城について具体的に書かれているのは、1569年(永禄12年)、岐阜に信長を訪ねたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書【日本史】と京都の公家山科(やましな)言継(ときつぐ)の日記【言継卿記(きょうき)】です。フロイスはキリスト教の布教許可を得るため、言継は朝廷の経費援助依頼のために訪れています。
 フロイスの記述によれば、「岐阜城への登城途中に大きな砦(とりで)が設けられ、20名くらいの若者が昼夜つめかけ、不断の見張りをしていました。上の城(岐阜城)に登ると、入口の最初の三つの広間には100名以上の若い家臣がいて信長に奉仕していました。私たちが到着すると信長は内部に呼びよせて、次男(茶箋丸(ちゃせんまる)、のちの信雄)に茶を持参させてもてなしました。ここの前廊からは美濃と尾張の大部分が眺望でき、すべて平坦な土地でした。前廊の内部にはきわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、中には千本以上の矢が置かれていました。
 つぎにフロイスは、信長との会見内容を「彼は私にインドにはこのような城があるか」と尋ね、私たちの談話は二時間半または三時間も続きましたが、その間、彼は四大(土・火・水・風)の性質、日月星辰(せいしん)、寒い国や暑い国の特質、諸国の習俗について質問し、これに対して大いなる満足と喜悦を示しました。(後略)」と記しています。
 言継の日記には、「信長の許可をうけ、武井(たけい)夕庵(せきあん)(信長の文書・記録を作成する役職にあった人物)の案内で七曲道(現在の金華山七曲登山道付近)から登城した。山上の城中で音曲・囃子(はやし)などの後、信長のもてなしで食事をご馳走になった。その後、城内を信長の案内で見物したが、道があまりにも険しく大変であったので、風景どころではなかった。・・・(中略)・・・夕庵への礼状に『山たかくかく(岐阜)よそに又似たる方なき此殿つくり』なる一首を詠み送った」とあります。
 両者の記述からは岐阜城天守閣の姿は不明です。1600年(慶長5)の岐阜城落城後、加納城二の丸に移築されたといわれる天守閣は、「御三階の櫓(やぐら)」と呼ばれていたことから、三階建てであったと思われます。ただ、これが信長時代のものであったかは断定できません。後の池田輝政時代、岐阜城が大改築されたとも言われています。1576年(天正4)から築かれた安土城天守閣が七層造りの威容であったことから、岐阜城天守閣も小規模ながら立派な景観であったと想像できます。

Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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