2007年11月29日(木)

2.信長と斎藤道三

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常在寺

 斎藤道三は美濃の国主です。道三を主人公にした司馬遼太郎の小説「国盗(くにと)り物語」はベストセラーとなり、1974年(昭和49)NHK大河ドラマとして放映されました。道三の名前は、一躍全国的に有名となり、その活躍の場の「美濃(みの)」(現在の岐阜市)へは、当時多くの人が訪れました。
 道三の素性(すじょう)は、最初、京都妙覚寺(みょうかくじ)の法華坊主(ほっけぼうず)、やがて還俗(げんぞく)して燈油(とうゆ)問屋奈良屋の娘を妻とし、山崎屋庄五郎と名乗り油商人となって諸国を行商します。美濃国へも足を運ぶうち、妙覚寺修行時代の同輩であった常在寺(岐阜市梶川町・日蓮宗寺院、のちに道三・義龍の菩提寺となる)住職の推挙により、美濃守護土岐氏へ仕えるようになります。そして、後には、守護土岐頼芸を追放し、美濃国を手中に収めます。まさに、下克上(げこくじょう)の戦国時代を生きた典型的な人物です。近年、道三の国盗りは、古文書(六角承禎(ろっかくじょうてい)書状)により、道三の父と道三、父子二代で成し遂げたものであることが分かりました。
 この道三によって、現在の岐阜市(当時は井ノ口)の “まち”の基礎が稲葉山城(岐阜城)下に出来たのです。
 信長の父信秀は尾張国の半分以上を征服し、東は駿河(するが)の今川氏、北は美濃の斎藤氏(道三)と対抗して戦いを繰り返していました。何度も美濃へ侵攻しましたが、十分な戦果を挙げられず、1547年(天文16年)の戦いでは、道三に大敗し、5,000人ともいわれる戦死者を出しました。(この時の戦死者を葬った「織田塚」が今でも岐阜市内の円徳寺に残っています。)
 信秀は、道三と結婚という手段で同盟を結び、北の備えを万全にして、今川氏攻略に全力を傾注しようとしたのです。こうして信秀の子息・信長と、道三の息女・濃姫の結婚は成立します。二人は、いわゆる政略結婚です。信長15歳、濃姫14歳でした。
 「信長公記」*1には、その様子を「さて、平手中務(政秀)才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城(やましろ)道三聟(むこ)に取り結ぶ、道三が息女尾州へ呼び取り候(そうら)ひき。然(しか)る間、何方(いずかた)も静謐(せいひつ)なり」*2と記されています。
 信秀の死後、家督を継いだ信長は、尾張統一へ激しい戦いを繰り広げますが、道三は信長に兵力や物資を送って援助します。二人の関係は非常に良好でした。

*1 信長公記・・・織田信長の文書や記録を作成する役職にあった太田牛一著
          信長の一生を年月を追って記述したもの
*2「平手政秀の才覚で、織田信長を斎藤道三の婿にし、道三の娘を尾張へ呼び寄せた。それによって、美濃と尾張は争いもなく静かになった。」

Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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