2007年11月14日(水)

12.信長の廟所・崇福寺

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崇福寺

 天下統一を目前にして、「本能寺の変」で倒れた信長の廟所(びょうしょ・墓所)が、岐阜市長良福光の臨済宗妙心寺派の名刹 崇福寺(そうふくじ)にあります。
 信長の廟所は、京都の本能寺・大徳寺をはじめ全国で二十箇所近くあり、崇福寺もその一つです。
 信長の側室であった小倉鍋(おぐらなべ)(鍋(なべ)の方(かた))は、本能寺の変後信長の遺品を岐阜へ持ち帰り、信長が岐阜時代に祈願所としていた崇福寺へ納めて、信長・信忠(6月2日、二条御所で明智光秀勢に襲撃されて討死)父子の位牌を安置し、供養塔を建ててここを廟所としました。
 このことを同寺に依頼した鍋の書状が二通残されており、いずれも流麗な仮名文字で書かれています。
 一通は、「天正拾年(1582年)六月六日」の日付があり、信長が本能寺の変で倒れた4日後です。変後の混乱を恐れて信長の祈願所であった崇福寺へ「上(うえ・信長)の位牌所」とする旨を伝え、あらためて保護を依頼したものです。
 もう一通は、信長の重臣であった丹羽五郎左衛門(長秀)へあてたもので、日付はありませんが、前の書状に近い時期と考えられます。
 羽柴秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」(6月13日)の後、長良(岐阜市)に陣取った長秀へ、鍋の方が崇福寺で信長との間に生まれた三人の子に「親子の忌中」をさせたいので、長秀に同寺の警護を命じたものです。
 鍋の方は近江国の土豪高畠源十郎の娘です。同国八尾山城主小倉賢治に嫁ぎましたが、夫が反信長の六角氏に攻められて討死しましたので、信長を頼って岐阜城下へ賢治との間に生まれた二人の子どもを連れてやって来たのです。
 信長は彼女を側室とし、岐阜城下に居館を与えて保護しました。二人の間には、信高・信吉・於振(おふり)の二男一女が生まれています。
 崇福寺は現在でも信長ゆかりの品が残されているほか、毎年10月第一土曜日にはぎふ信長まつりにあわせて信長公追悼式が行われています。

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織田信長・信忠父子廟


Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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