2007年11月28日(水)

3.聖徳寺の会見と道三の遺言状

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斎藤道三肖像画(常在寺所蔵)

 信長の許(もと)に濃姫を嫁がせた道三は、一度、聟(むこ)の信長と会見したいと思いました。当時、信長の評判は「尾張の大うつけ」(大ばか)と呼ばれ、芳(かんば)しくないものでした。両者の交渉の結果、会見の場所は、美濃と尾張の国境いの木曽川沿いにあった聖徳寺(しょうとくじ)(現在の一宮市富田)に決まりました。
 1549年(天文18年)、道三・信長は会見します。『信長公記』には、その様子が、詳しく記されています。
 信長より一足先に聖徳寺へ到着した道三は、寺近くの町屋にひそんで信長の来るのを監視します。道三の前に現れた信長の風体(ふうてい)は、片肌脱いで腰に荒縄を幾重にも巻き、火打石や瓢箪(ひょうたん)などをぶら下げて、馬に横乗りした異様なものでした。しかし、道三が驚いたのは、信長の後に続く槍隊・弓隊・鉄砲隊の見事さで、道三の家来の装備よりも数段勝っていました。さらに、会見に臨んだ際の信長の挙措(きょそ)は、礼式にかなった立派なもので道三を驚嘆させました。会見は短時間で終わります。帰途に着いた道三に、家来の一人(猪子兵介)が、「信長は評判通りの“大うつけ”でしたね。」と言った時、道三は、「信長は“大うつけ”でない。やがてわしの子孫は“信長の馬の轡(くつわ)をとる”(家臣になる)だろう」といい、信長の非凡さを見抜いたのです。
 この会見で、両者がそれぞれ相手の本質を知ったことで、以後、二人の関係は緊密になります。
 後に、道三は実子の義龍と対立し、1556年(弘治2年)、二人は長良川を挟んで対戦します。義龍方の兵力が圧倒的に多く、形勢不利で死を覚悟した道三は、戦死の前日の4月19日、我が子に遺言状を残しました。
 その中に、美濃国を聟の信長に譲ることが述べられています。「美濃国大桑(おおが)に於(おい)て、終(つい)には、織田上総介(信長)存分(思うまま)に任(まか)すべきの条(じょう)、譲状(ゆずりじょう)信長に対し渡し遣(つかわ)す」の部分が、それに当たります。
 道三を討ち取った義龍は、道三応援のため出兵した信長軍と大浦(現在の羽島市)で戦いますが、信長は、道三討死のことを知り“しんがり”(軍隊が退却する際、その最後部にいて敵の追撃を防ぐこと)となって、舟上から鉄砲を撃ち、木曽川を渡って清洲城へ引き揚げます。
 信長・道三の絆(きずな)の強さ、信頼関係の深さをうかがわせる出来事でした。

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【道三塚】
義龍と長良川を挟んで対戦し激闘の末戦死した、斎藤道三の遺体を葬ったとされる塚。
かつては崇福寺の付近にありましたが、江戸末期に常在寺の住職日椿上人が現在の位置に移しました。

Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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