2007年11月21日(水)

7.岐阜城下の繁栄

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信長居館跡

 信長が岐阜に入ったのは34歳の時でした。天下統一の志を持ち、長年嘱望していた岐阜の地を得て、大いに大業を達成しようとしました。
 信長の岐阜城下町について、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』から紹介します。フロイスは、1569年(永禄12年)、キリスト教の保護と布教の許可を信長から得るために岐阜を訪れました。当時の岐阜町について、「人々が語るところによれば、八千ないし一万の人口を数えるとのことであった。・・・(中略)・・・同所では取引や用務で往来する人がおびただしく、バビロン(世界文化の中心として栄えたイラク中部にあったメソポタミアの古代都市)の混雑を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や、反物、その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まっていた」と記しています。
 楽市楽座令により、全国から人や物の集まった岐阜町の繁栄ぶりがよく分かります。
 岐阜城下町は、斎藤道三が建設した「井之口城下町」を信長が発展させたものです。金華山麓の信長居館(斎藤氏の元居館)と、その前面の武家屋敷が行政機能の中核をなし、それに続いて四角い区画の町割りがあり、いくつかの町人町がつくられていました。城下町の周囲は堀と土塁(どるい)からなる惣構(そうがまえ)をめぐらした強固なものでした。当時の町数は四十四町からなり、いまなお大工町・材木町・米屋町・竹屋町などの町名が残っています。
 金華山麓の信長居館に導かれたフロイスは、巨大な石垣や「劇場のごとき大なる家屋」に驚愕(きょうがく)し、「クレタ(ギリシャのクレタ島に栄えた古代文明。クノッソス宮殿や多彩の陶器類で有名)の迷宮」のような複雑な構造に驚いています。
 居館は四階建てで、一階が舞台のような大広間、二階は家族の居室があり、美しい襖でいくつかの小部屋に仕切られていました。三階は閑静な茶室、四階からは岐阜町が展望できました。庭には白砂で敷きつめられた池があり、中には美しい魚が泳いでおり、池の中の小島には四季の花がいっぱいに咲いていた。と克明に記しています。
 現在でも岐阜公園内にある信長居館跡では、巨石を使用した通路や石垣などが保存整備されています。
 信長の岐阜入城からわずか二年後に、岐阜町が美濃の首府に変ぼうした様子に驚かされます。

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【総構の土塁】
写真右側の堤防は戦国時代の土塁を利用してつくられています。この堤防は岐阜公園北側の金華山トンネルから金華橋まで続いています。

参考リンク
信長居館発掘調査ホームページ(岐阜市教育委員会)

Posted by 岐阜観光コンベンション協会 at 12時00分

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